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熊本地方裁判所 昭和33年(ワ)322号 判決

原告 国

訴訟代理人 広木重喜 外三名

被告 阿蘇町

主文

一、別紙目録記載の土地が原告の所有であることを確認する。

二、被告は右土地に立ち入る者に対して入園料名義による金員を徴収してはならない。

三、被告は原告に対し別紙目録記載の各建物を収去してその敷地を明け渡せ。

四、訴訟費用は被告の負担とする。

五、この判決の第二項および第三項は原告が金一、〇〇〇万円の担保をたてることを条件に仮に執行することができる。

事実

第一、原告指定代理人は、主文第一項ないし第四項と同旨の判決ならびに主文第二項および第三項について仮執行の宣言を求め、請求原因として、

一、別紙目録記載の土地は明治初年以来原告の所有に属する。

すなわち、阿蘇山なかんずく阿蘇中岳の噴火口を中心とした周辺一帯の土地は絶ゆることなき鳴動噴火を繰り返し、時としては一大爆発を現出せしめてきたので、その自然の雄大無比なる景観と烈しい火山活動の相貌は古来から畏敬の念をいだかせ信仰の対象とされ、欽明天皇の時代に中噴火口内の三つの池に健磐竜命、阿蘇都媛命、産御子命の三神を奉斉し、これが阿蘇神社の起源とされ、以来この噴火口を御池、神霊池と称し、さらにこれを中心とした荒蕪地一帯を神聖地として不浄を忌み、尊崇しきたつた。しかし、山上に特に社殿が設けられたわけではなく、鳥居を構えてそれより奥、すなわち噴火口を中心とした荒蕪地一帯を神体山視してきたものであるところ、明治初年に至り社寺領上知令に基づく土地処分によつて、噴火口を中心とする荒蕪地一帯は政府に上地され、その後地所処分仮規則により官有地に区分されたが、その際官有財産台帳等の公簿公図には登載されるに至らないまま推移していたところ、以下述べるように被告は噴火口周辺の土地をその所有に属すると主張するに至つたので、原告は、中岳噴火口を中心とした周辺の荒蕪地帯を現地調査のうえ、別紙図面表示0点から順次55点および0点を結ぶ線で囲まれた土地(以下これを本件土地という)について、昭和三二年六月一八日別紙目録(一)記載のとおり原告名義の保存登記をなし、かつ国有財産台帳に登載した。

二、被告は、昭和三一年一一月阿蘇神社から本件土地につき国有地払下申請がなされたのを契機として、本件土地が以前国有土地森林原野下戻法に基づいて下戻を受けた原野の範囲内に属する被告の所有地であると主張し、昭和三二年九月三〇日本件土地を含む土地に阿蘇山町立自然公園を設置し、昭和三三年一月中旬本件土地上に別紙目録記載の建物を建築して同建物を入園料徴収事務所として使用し、昭和三三年一月二六日より入園料と称して一般観光客から次のような額の金員を強制的に徴収している。

大人(満一五才以上)     一人につき三〇円

学生(高校生以上)      一人につき二〇円

小人(満六才以上一五才未満) 一人につき一〇円

三、そこで、従来自由に本件土地に立ち入ることのできた一般観光客は、被告の右措置により、前記入園料を支払わねば本件土地に立ち入ることができなくなつた。

ところで、一般に自己の所有地について他人の立入を許すか否か、またはそれを如何なる程度に制限するかは所有者のみがその所有権の行使として決定し得るところであつて、所有者以外の第三者が所有者の意思に反してほしいままに右土地への立入を妨げ、制限を加えることは明らかに円満な所有権の行使を妨げるものというべきである。

四、よつて、原告は被告に対し、本件土地が原告の所有であることの確認と、被告の右土地に対する所有権侵害行為の排除として、被告が本件土地へ立ち入る者に対して入園料を徴収することの禁止および別紙目録記載の建物を収去してその敷地の明渡を求める。

と述べ、被告の主張に対し次のように述べた。

一、被告の主張のうち、字阿蘇山八〇八番の三、字打越堂八〇八番の一、字鐘の手一〇五八番、字高塚一六〇六番の各原野が下戻されたことは認めるが、その余は争う。

二、本件土地は被告主張の下戻原野には属しない。

阿蘇山麓および外輪山沿い一帯の原野は旧細川藩の領有であつたところ、版籍奉還後行われた官民有区別処分により官有原野に編入せられた。

ところで、従来牛馬の飼料、耕地の肥料、屋根の葺料等総ての供給をこの山麓原野に仰いでいた地元の各村々は、官有に編入後は、官地拝借という形で国から借地し、旧藩時代の慣行に従い放牧、採草を継続していた。

しかるところ、明治三二年法律第九九号国有土地森林原野下戻法(以下単に下戻法という)が施行せられるや、地元の宮地村外二三カ町村は、前記借用にかかる官有原野が旧来各村の部落協同で採草、放牧に使用し来つたものであり、かつ、右権利は旧藩当時既に確認されていたもので、その後公簿上にも「村受公有地または何村惣持」等の名義で登録されていた程であるから、下戻法にいわゆる「所有または分収」の事実があつたと主張して、これが下戻を受くべき宮地村長外二三カ町村長の連署をもつて、当時の熊本大林区署長を経由のうえ、下戻権者である農商務大臣に対して下戻の申請をなし、これが許可を得てそれぞれの町村或いは部落において所有権を取得したものである。

しかるに、本件土地は前記下戻原野とはその自然の状態を全く異にしている。すなわち、阿蘇中岳、高岳にかけての荒蕪地帯の西半分を占め、阿蘇山の周期的な火山活動の影響を受けて有史以来永年にわたつて草木の植生を許さない地表の裸出地帯を形成してきたいわゆる非経済的不生産地であつて、到底放牧、採草の用に供することのできなかたものであり、したがつてまた、前記拝借願の対象となつていなかつたものである。故に本件土地につき下戻法にいわゆる所有または分収の事実などあろう筈はなかつた。

事実、下戻申請の際添付された阿蘇五岳図によれば、中岳、高岳を中心とした荒蕪地帯と根子岳を中心とした荒蕪地帯はいずれも下戻申請地外であることが明示されている。そして、旧黒川村に下戻された原野は他の町村への下戻原野と同様青色をもつて色別されている。

加うるに、この下戻法により下戻がなされた土地については地祖が賦課せられ、それは経済力の薄弱な阿蘇郡下住民にとつて少なからざる負担と解せられていた。したがつて、本件土地の如く甚だ非経済的、不生産地で、しかも降灰、噴石、鳴動等火山活動のあくことなき大自然の悪条件下におかれた土地につき地元民がこれを下戻の対象とすることは到底考えられないところである。

さればこそ、右下戻申請書にあたつて、宮地村外二三カ町村から提出された国有原野下戻申請誓によれば、所管大臣を農商務大臣とし、かつ、従来借用使用していた慣行原野についてのみ下戻申請がなされたのであつて、森林原野以外の国有地の所管大臣であつた内務大臣に対しては、下戻申請書の提出された事跡はなかつたのである。

更にまた、被告主張の阿蘇山八〇八番の三、打越堂八〇八番の一、鐘の手一〇五八番、高塚一六〇六番の四筆の土地は、明治三八年六月一九日下戻の許可がされた後、明治四二年一〇月三一日に地価設定、反別丈量がなされているのであるが(地価の設定、反別の丈量は明治年間における地租改正事業の基礎となつたものであり、それは官が直接には手を下さず、まず人民の手で測量が行われ、その後官がこれを検査する方法をとつたもので、かかる人民の地押丈量は概して信頼されるものであつた)、その地価の一町歩当りの価格は阿蘇山麓原野の他の部分について設定された下戻原野と同額かまたそれ以上のものとして設定されているところに徴すれば、それが本件土地の如き荒蕪不毛の地内に所在するとは到底考えられない。

更に、明治一九年以前に熊本県が作成した原野台帳(後に熊本大林区署に引継がれて国有林野地積台帳となつたもの)によると、字鐘の手一〇五八番原野二六町歩、字高塚一六〇六番原野七五町歩、字打越堂八〇八番の一原野四八町歩は、いずれも黒川村本田栄次郎外四名が下戻前牛馬飼養のため有料拝借したことが明らかである。のみならず、この拝借に関する約定書によれば、字鐘の手、字打越堂の両字は阿蘇山の禿山(荒蕪地帯のことを古くは禿山と呼称していた)限りであることが明示されている。したがつて、拝借地の具体的範囲はあくまで牛馬飼養に必要な採草、放牧地としての適性を有し、かつ、地元原野委員によつて管理されてきた範囲のものというべきであつて、この中には勿論荒蕪不毛の地は含まれないものと解すべきである。

三、被告の時効取得の抗弁について。

(一)  被告主張事実に対する反駁。

(1)  被告は、大正一〇年九月鶴林又喜外一名から村有地貸与方の出願を受けたというのであるが、その出願地が現地のいずれの場所に該当するのか、いいかえれば本件土地の一部につき借地の出願がでて、これを議したものかどうかが明らかにされていない。のみならず、出願を却下したという字阿蘇山および字打越堂の土地については、単に出願人の出願に対する村議会の議決、すなわち村の議決機関の意思表明に過ぎないのであつて、何ら本件土地につき黒川村が現実の客観的社会的支配をしていたという事実を立証するものではない。

(2)  つぎに、被告は、昭和四年二月藤原逸雄外一名に硯石附近の原野六〇坪を茶店建設の敷地として、昭和五年三月森朝喜に火口周辺五カ所に各一坪をおみくじ箱設置のため、同年七月池田頼一に第一火口西方一〇〇米内外のところ一〇坪を薬品製造ならびに物品販売のため、同年一〇月大阿蘇写真合名会社に対し噴火口附近一帯を写真撮影のため、それぞれ貸付けたと主張するのであるが、しかしながらこのことをもつて被告が本件土地を占有し客観的に事実上の支配をしていたと断定することはできない。

けだし、森朝喜のおみくじ箱の設置に前後して、同人の寄付にかかる阿蘇神社奥宮祠堂が、当時としては少なからざる費用を投じて、しかも鉄筋コンクリートの恒久建物として建設せられ、また昭和四、五年頃和田伝平外数名の絵葉書、土産品販売業者が噴火口附近で行商をしておつた。しかるに、黒川村はそのことを知りながら、それらの借地許可方の申立を求めた形跡はない。そして、その頃は熊本県立大阿蘇公園の設置運動が盛んとなつていた時代であり、交通機関の整備、国立公園の設置等に伴い今後一層登山者の激増が予想せられていた。しかるにかかる一般登山者については黒川村としてはその自由な立ち入りを制限したことはなく、勿論今日見られるが如き入園料徴収所の設置とか、入園制限の立札とか、その他権利の行使に当るが如き行為または措置は全然とられていなかつた。

このように茶店、おみくじ箱の設置および写真撮影の許可についてみても、これと接近する他の類似建物の設置ならびに類似行為については全く権利主張がなされず、しかも多数の一般登山者は単に山上神社から噴火口へ往復するだけでなく、馬の背越、仙酔峡、中岳、高岳への登山、皿山、砂千里への道の外無数の放射状渓谷からも本件土地に自由に立ち入ることができ、実際立ち入つているのであるから、僅か五坪ないし六〇坪の土地貸借の出願許可をもつて広茫一〇〇万余坪にわたる本件土地全体を支配占有したということができるであろうか。

されば、この茶店、おみくじ箱の設置、写真撮影の許可というのは、この広茫一〇〇万余坪を黒川村が私有し、その私有地の一部につき賃貸借契約を締結するというよりも、多分に前記特定の出願人に対する行政的な許可とみるのが至当であろう。

なお、被告は前記硯石附近を字阿蘇山八〇八番の三地内として貸付けたとしているが、本件訴訟では右硯石附近は字打越堂八〇八番の一の地内であることが明らかである。

このことは、本件土地について被告が主張する字界がいかに杜撰なものであるかを如実に示すものにほかならない。一般に字界、村界等は顕著な目標物件、地形等を基準として定められているのが通例であるのに、被告主張の字界は単に字図から観念的に実測図上に字界線をおとしたに過ぎないのであつて、何らよるべき根拠を有するものでないのである。更に、この硯石から噴火口縁の行幸記念碑の少し南を旧登山道路伝いに概ね結ぶ線と、硯石から楢尾岳下北側方向に概ね結ぶ線とを、宮地町と黒川村との村界とする協定が昭和八年の大爆発後遭難者の収容を契機として両町村当局者間において成立し、これを印すため右硯石の側面に「→印」と「宮地」なる文字がきざみ込まれているのである。

されば、当時村界についてすら必ずしも明瞭な現地区分がなされていなかつた程であるから、まして字界について実測図にみる如き現地区分があろうはずはなかつた。したがつて、本件土地全域について黒川村が隣村をはじめ世の何人からも容認せられる如き事実支配を確立していたとは到底いうことができない。

(3)  被告は昭和四年五月熊本県立大阿蘇公園敷地として本件土地を貸与した旨主張するが、それは同公園条例第二条による公園の地域としての別表第一号表に字阿蘇山八〇八番の三、打越堂八〇八番の一、高塚一、六〇六番および鐘の手一、〇五八番の原野が掲げられていることを指すようであるが、しかしながら右別表第一号表に記載されている各村有地は前記阿蘇五岳図と対比するときすべて下戻原野であつたことが窺われるのである。

したがつて、黒川村が提供した範囲はあくまでも下戻原野に属する範囲と解するのが至当である。

(二)、取得時効の成立しない所以。

以上のように被告が本件土地を時効取得したとして占有支配の徴憑事実として主張するところは、いまだもつて本件土地である荒蕪地域につき全面的に長年月にわたり自主占有を継続確立し来たつたという事実状態の主張としては甚だとるに足らないところである。

本件土地は、前記のとおりその自然の状態において下戻原野とは全然別個の地域であり、また土地の沿革も異にし、かつ、神体山として阿蘇山信仰の対象とされ、登山、観光、学術研究のため一般大衆の自由な使用に委ねられてきたところである。而して、国もこれがため種々の施設または管理を行い、これについては勿論旧黒川村ないし阿蘇町により何らの掣肘を受けたこともなく、したがつて、被告が国のかかる権限行使を排斥し、継続的・排他的に本件土地を占有し支配した事実はなかつたのである。

されば、被告の本件土地についての時効取得の抗弁は、甚だ一方的な独断であつて、全く法的根拠を有しない強弁というのほかはない。

四、仮執行宣言の申立について。

請求趣旨第二、三項(主文第二、三項)は、入園料徴収禁止および入園料徴収所の収去、土地明渡を求めんとするものであるから、民事訴訟法第一九六条の「財産権上の請求」に関するものであり、仮執行の宣言を求めうる場合に該当する。

被告は、右入園料の徴収が「阿蘇山町立自然公園入園料徴収規則」に基く行政行為であるから、本件民事訴訟手続事件のなかではその構造上仮執行の宣言が許されない旨述べるけれども、被告が条例規則をもつて入園料を徴収し得るためには、地方自治法第二二〇条(現行法では第二二五条)に照し、当該使用料入園料(といえどもその法律的性質は使用料に当る)徴収の対象物件につき、所有権その他の正当権原を具有することが必要であり、もしかかる正当権原を有しないなら使用料の徴収権限を否定されねばならない。いいかえれば、そのような所有権等を有しない場合にはたとえ使用料徴収のための条例規則を制定しても、その条例規則は当然無効であり、これが行政訴訟における取消または無効判決を求めるまでもなく、使用料徴収が禁止さるべきことは当然である。

したがつて、原告としてはその所有権の行使として被告に入園料徴収の実質的権限のないことを前提としてこれが徴収の禁止を求めることができ、それはあくまでも国と町との所有権をめぐつての民事事件としての法律上の権利関係にかかわる紛争であり、仮執行の宣言を付するのに何等の妨げとなる理由もない。

そして、本件土地は大阿蘇国立公園の中核をなす拠点であり、この自然の一大景観はすべての国民によつて享受さるべき、いわば国民共有の財産ともいうべきものであつて、国は阿蘇五岳を中心とする一大景観を誇りとし、広く内外の人々にできるだけ自然の状態において自由に利用されることを最大の利益としているものである。このように本件土地は阿蘇国立公園の中核としてその保護・利用の両面から重大なる国家的関心と利益を有するものであるが、そのほかにも科学研究の対象として欠くことのできない貴重な存在である。

ところで、これらの利益はこれを金銭に見積ることは容易ではない。しかし、それが国以外の第三者によつて国の意向ないし政策に反してふみにじられるにおいては、国有財産の管理上到底償い難い禍根を将来に残すものといわねばならない。

而して若し一審判決の後、二審・三審と審理が係属し、確定判決をまつて漸く本件紛争は終局的に止むとしても、その間入園料の徴収が継続されるのであるから、一刻も早くこれが禁止を求め、自他共に阿蘇国立公園が国民共有の所産として自由に享受されることに喫緊の必要性があるものといわねばならない。

第二、被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、「請求原因中、原告がその主張のように本件土地について保存登記をしたこと、および被告が本件土地上に別紙目録記載の建物を所有し、原告主張のように入園料の徴収をしていることは認めるが、その余は争う。」と答え、被告の主張を次のように述べた。

一、被告は町村合併により昭和二九年三月旧黒川村と他町村が合併して発足した町であるが、本件土地は旧黒川村が明治三八年六月一五日国から下戻法に基づき下戻を受けた。

(1)  熊本県阿蘇郡阿蘇町大字黒川字阿蘇山八〇八番の三

一、原野 三〇町歩の全域

(2)  同大字字打越堂八〇八番の一

一、原野 四八町歩の一部

(3)  同大字字鐘の手一〇五八番

一、原野 二六町歩の一部

(4)  同大字字高塚一六〇六番

一、原野 七五町の一部

であつて、その範囲は別紙図面に色分けしたとおりで、被告の所有地である。

(一)、本件土地を含む噴火口の東から古坊中の西まで東西五〇町、南北三〇町の土地は、もと輪王寺宮一品法親王の御朱印地として三六坊西巖殿寺が支配してきたものを、明治四年社寺領上知令により同寺が太政官に上地した土地である。

すなわち、同寺は明治三年頃までは大本堂および四二堂舎の伽藍を有する寺院群をもつて構成され、本件土地および右字打越堂の土地の大部分はその境内地に属していたが、その頃廃寺を前提として山上堂舎の全部を山麓坊中に移したので、明治四年の上地当時は現実に境内地は存在せず、したがつて本件土地を含む東西五〇町、南北三〇町の土地はすべて寺領地として上地された。

(二)、ところで、本件土地は西巖殿寺の廃寺に至るまでは特に霊地として尊崇されてきたが、その霊地の意義は通常の霊地としての概念といささかその趣を異にし、地元農民が噴火口に存在する熱湯自体を牛馬の生命と安全を守る打越水神社の神体と尊崇してきたところから、西巖殿寺も右水神を本尊と合祀することにより農民の信仰と期待に応えてきたことと、牛馬が打越水神社の神獣として取り扱われてきたことから、牛馬の本件土地への放牧出入は人間の出入以上に自由に認められ許容されてきた。

特に右上地以後、本件土地は全域にわつて牛馬の放牧地として解放され、旧黒川村民において使用を継続してきた。すなわち、牧草刈取の可能な土地については国に賃借料を支払つてこれを借用し、本件土地の一部に該当する字阿蘇八〇八番の三原野三〇町歩については秣刈取に適しないという理由で賃借料を支払うことなく事実上放牧地として使用してきた。また昭和八年二月以降の阿蘇山の大爆発までは、本件土地は現在見分されるよりははるかに多くの草木が自生し、かつ、該地が比較的冷涼で蚊、はえ、あぶ、だに等の寄生虫が少ないところから、放牧牛馬は現在よりもはるかに多く本件土地上に群遊していた。

(三)、明治三二年下戻法が制定されるや、黒川村村長中嶌律は、明治三三年三月二六日、他の町村と協力して二四カ町村が本件土地とともに従来賃借使用してきた他の土地の下戻申請をなし、明治三八年六月一五日農商務省指令第二七二号でその許可を受け、明治四〇年六月旧黒川村関係分として本件土地を含む前記被告主張の四筆の土地およびその他の土地を現地において引渡を受けた。

その下戻申請の理由としては、旧黒川村民にとつて本件土地は秣刈取に利用しうる土地ではないけれども、前記のとおり牛馬放牧の遊歩地としてぜひ必要な土地であり、かつ、永年にわたつて慣行として本件土地に対する入会権としての全面的支配権をおよぼしてきたことから、そのことを所有の事実として下戻を申請したもので、また旧黒川村民がもと右土地の所有者であつた西巖殿寺の寺領民および縁故者であつた関係上、寺院内規によれば寺が廃寺したとき、その財産は(1) 本山、(2) 寺領民、(3) 檀信徒、(4) またはこれらを含んだ地元町村の順で承継取得することとなつているため、これに従つて黒川村民がそら権利者の立場にあつたことも隠れた理由になつている。

二、本件土地が下戻処分の土地に含まれていないという原告の主張に対する反論。

(一)、字阿蘇山八〇八番の三原野三〇町歩が下戻されたものであることは原告もこれを認めるところであるが、もともとその地目は原野と表示されているが、右地目の表示がすなわち牧草の生育する言葉どおりの原野として使用されたものであるかははなはだ疑問であり、田畑山林以外の山膚はすべて原野として一括して呼称された形勢がはなはだ強いものである。

原告所有にかかる

(イ) 明治一三年調製山林原野地価帳には

甲組全黒川村字阿蘇山八〇八番の三

一、禿山反別三〇町歩官有地

(ロ) 甲組証文根帳には、

字阿蘇山八〇八番の三

一、禿山反別三〇町歩官有地

(ハ)、山野改租地価帳には、

字阿蘇山八〇八番の三

一、禿山三〇町歩官有地

として明記され、しかも禿山とある上に符箋を付して原野と記載されており、右土地が実は草木の自生しない禿山として扱われてきたことが明らかである。もし本件土地内にかかる阿蘇山八〇八番の三原野三〇町歩が含まれていないとするならば、右禿山は他に全然存在しない。

(二)、字阿蘇山八〇八番の三については、旧黒川村民は右土地を全然賃借しておらず、字打越堂八〇八番の一原野四八町歩についてはそのうち三〇町歩のみ借受け、字鐘の手一〇五八番原野二六町歩についてはそのうち二〇町歩のみ借受け、字打越堂八〇八番の一については爾余の一八町歩、字鐘の手一〇五八番の土地については爾余の六町歩を賃借していなかつたことが明らかである。

しかし、下戻処分によつてこれらの土地がすべて一括して現実に下戻されたことは明白な事実であり、そのことから考えるとき下戻処分が原告の主張する如くいわゆる賃借土地のみでなく、下戻申請をした土地はすべてその土地の現況にほとんど関係なく下戻されていることが認められる。

なお、原告は、甲第九号証の四の八の「字鐘の手一〇五八番原野二〇町歩」の借地図が南は蘇岳禿山をもつて区切られており、また甲第四〇号証の約定書によれば「字打越堂八〇八番の一原野三〇町歩」の境域が東禿山限りと記載されていることをもつて本件土地が借用されたことなく、同時に字鐘の手、同打越の両字が本件土地におよんでくるはずがないと主張するが、元来字鐘の手一〇五八番は原野二六町歩とされており、同打越堂八〇八番の一は原野四八町歩であつて、右借地図の趣旨は、鐘の手についてはうち二〇町歩の牧草地を借用するというものであり、同じく打越堂の土地についてはうち三〇町歩の牧草地が借用の対象となつている趣旨であり、また約定書は関係部落民のこれらの土地についての入会に関するものである。

三、予備的時効取得の主張。

(一)、下戻後の黒川村の本件土地管理支配の状況。

黒川村は、明治四〇年六月下戻原野を現地で引渡を受けた後、右土地の所有者として本件土地を放牧地として使用しつづけ、まず村有部落有財産台帳にこれを登載し、明治四四年一二月六日には阿蘇郡長十時三吉郎の検閲を受け、つづいて明治四五年五月一三日当時の黒川村長等においてその臨時検査を施行し、平穏にその管理支配を続けているうち、

(1) 、大正一〇年九月、鶴林又喜外一名から噴火口周辺の字阿蘇山八〇八番の三原野三〇町歩のうち一畝と字打越堂八〇八番の一原野四八町歩のうち一畝および外一カ所の村有地貸与方の出願を受け、これにつき阿蘇山および打越の両字に係る部分は「阿蘇霊山の風致を損する」という理由をもつてこれを却下し、その使用を許さず、

(2) 、本件土地が観光地として一般に喧伝されるにおよび昭和三年九月熊本県より字阿蘇山八〇八番の三俗称硯石附近の土地六〇坪を県立阿蘇公園登山小屋建築敷地として貸与方申込があり、同年一〇月一日黒川村議会において県に右土地を無償貸与する旨決議し、

(3) 、昭和四年二月、藤原逸雄外一名から右硯石附近原野六〇坪の土地につき、向う一〇カ年間借地料一カ年金一〇円にて茶店建設敷地として貸与方出願を受け、同月二五日右申出の条件に更に借地を第三者に転貸しないことの特約を付してこれを許可し、

(4) 、昭和四年五月熊本県から本件土地を他の土地とともに県立公園敷地として貸与方申込を受け、慎重審議の結果同年七月三日これを貸与し、

(5) 、昭和五年三月森朝喜より字阿蘇山八〇八番の三俗称砂千里カ浜村有地二〇町歩をスキー場建設用地として貸与方出願をうけたが、面積が広大なるうえ、将来予想される県立公園の設備等を配慮してこれを許可せず、

(6) 、昭和五年六月森朝喜より火口周辺五カ所におみくじ箱設置のため一カ所一坪以内を貸与ありたき旨願出をうけ、同月三〇日一カ所金二円宛合計金一〇円の貸付料を徴することとして、その許可をし、

(7) 、昭和五年七月池田頼一から薬品製造ならびに物品販売のため、第一火口の西方一〇〇米内外のところ一〇坪につき貸与方出願をうけ、同年九月一一日年額金一〇円の貸付料を徴することとしてこれを許可し、

(8) 、昭和五年一〇月大阿蘇写真合名会社より噴火口附近一帯の土地につき写真撮影のため貸与されたい旨の出願をうけ、同月一三日一カ年につき金七〇円を徴収することとしてこれを許可し、

(9) 、昭和五年一〇月一三日、さきに熊本県と黒川村との間に締結された本件土地を含む県立公園敷地貸付契約につき必要部分を改訂して新たな貸付契約を締結し、その際熊本県は右契約によつて県が享有する一切の権利を、将来国立公園敷地として指定された場合、そのまま国に移転することをうる旨了解を求め、

(10)、昭和一〇年一〇月大阿蘇写真合名会社より写真営業のため、噴火口一帯の土地につき貸与方の申込をうけ、同月七日さきに許可したと同一の条件(借地料一カ年金七〇円)で貸与する等、

今日まで黒川村が本件土地を自己の所有地として管理支配を続けてきた。

(二)、したがつて、仮に本件土地が下戻されることなく国有として引き残されていたとしても、黒川村は明治四〇年六月八日以来本件土地が黒川村に下戻されたものとして、善意で本件土地全域について前述のとおり所有者としての事実的支配をおよぼしてきたものであり、少なくとも右下戻の際の引渡後一〇年を経過した大正六年六月八日には時効によりその所有権を取得した。

この点につき、原告は、わずか五坪ないし六〇坪の出願許可をもつて広茫一〇〇万余坪の土地を支配したことにはならないとし、あるいは時効取得の要件たる所持に関し、黒川村の占有支配は排他的支配ということをえず、結局所持に該当しない旨主張するが、本件土地がいわゆる荒蕪地として本来生産性の低い地域であつて、牛馬の放牧のほかはわずかに観光地として利用されつづけてきたことから考えると、前述の支配は時効取得の要件としての所持に該当するというべきである。

而して、本件土地につき、明治四〇年六月の下戻の際の引渡以来原告において国有地である旨の特段の権利主張をしたことなく、かえつて黒川村の所有権を容認していたもので、昭和五年黒川村は県立公園敷地として本件土地を県に無償貸与することとなり、爾後は主として県を通じて管理支配を続け、昭和九年国立公園に指定後はさらに国を通じて管理支配を続けてきたものである。

もし万一黒川村の管理支配が本件土地の全域におよばなかつたとしても、少なくとも噴火口周辺において黒川村の管理支配が続けられたことは一点の疑いをさしはさむ余地もなく、したがつて火口周辺一帯が黒川村有であることは明らかである。

四、仮執行宣言申立についての被告の主張。

原告申立の仮執行の宣言は次の理由によつて付せられるべきものではない。

(一)、被告が徴収している原告主張の入園料は、被告が地方公共団体として、阿蘇山上における景勝の保護、開発、利用の促進を図り、町民の保健休養および文化の向上に資するため、字阿蘇山八〇八番の三の原野、字打越堂八〇八番の一三の保安林、字打越堂八〇八番の二の原野の地域をもつて町立自然公園を設置し、右公園内における施設を充実し、かつ阿蘇登山によつて荒される牧野の修復の資に供するため、各々条例を制定してその徴収を行つており、右徴収行為は被告のなす行政行為であり、かかる行政行為を本件所有権確認等の民事訴訟手続において差し止めることは許されない。

(二)、また入園料は、本件土地を含む爾余の土地をもつて構成される阿蘇町立自然公園に入園する者を対象として徴収されているものであつて、本件土地に立ち入る者に対してのみ入園料を徴収しているものではない。

(三)、原告申立の入園料徴収禁止についての仮執行宣言は、原告の所有権者としての自由な自己使用の妨害排除を求めるものではなく、不特定多数の第三者の本件土地への立ち入りにつき、その第三者からの入園料徴収というかたちでの妨害排除を求めるものというほかはない。しかも第三者の本件土地立入りによつて原告自身が収益をあげるという経済的必要性の全くない本件においては、判決の確定をまつて執行力を生じさせるという原則によつても勝訴者に何等の不利益をもたらすものではなく、また入園料の徴収が行われている事実に基づき、本件土地に立入りを中止する者は現在までの実績にみて一人もなく、入園料徴収が本件土地に対する所有権の侵害をきたすということは全くないが、これに反し仮執行の宣言が付せられた場合には、後に被告が勝訴の判決を得てもその損害額の確定はほとんど不可能に近く、また被告の予算編成上全くその対策に困窮し、つぐない得ない損失を蒙ることが明らかであり本件には仮執行の宣言は相当でない。

すなわち、被告の徴収する入園料は、阿蘇町立自然公園に入園する者から入園の都度徴収するものであり、その機会に徴収しなければ入園者の住所も氏名も不明のためその徴収は絶対に不可能なものであり、かつ入園者の数はその自然条件またはその他の原因によつてこれまた不確定であり、観光ブームによる急激な入園者の増加ということを考え合わせば徴収し得べかりし入園料の算定は全く不可能であり、原告に対しその損害の賠償を求めるにも損害額の確定ができず、結局償うことのできない損害を蒙ることになる。

第三、証拠の提出、援用、認否。〈省略〉

理由

第一、本件土地の上地について。

成立に争いのない甲第四一号証の一ないし三、同甲第四二号証の一、二、同甲第七〇号証、証人草部宗尋の証言(第一回)により成立を認める甲第一三号証、同甲第一四号証、証人山口常義の証言により成立を認める甲第六七号証の一、二、同甲第六九号証の一ないし三、証人片岡建長の証言(第二回)により成立を認める乙第一九号証の二の一ないし二九、同乙第四一号証の一、二、同乙第四二号証の一ないし三、同乙第四三号証の一ないし五、同乙第四五号証の一ないし七、同乙第四六号証、証人草部宗尋(第一、二回)、同片岡建長(第二回)の各証言および鑑定人杉本尚雄の鑑定の結果を総合すると、古来から阿蘇山、特に中岳噴火口は信仰の対象とされ、神道的には中岳噴火口に健磐龍命、阿蘇比め神、産御子神がそれぞれ在し、噴火口がすなわち神霊池と一体視され、これが熊本県阿蘇郡一宮町阿蘇神社の主神である一の宮健盤龍命、二の宮阿蘇比め神、五の宮産御子の御神体であり、欽明天皇一四年三月山上に右三神を祭つたといわれ、山上には鳥居門のみ設けて特に神宮を創ることなく、本件土地を含む噴火口周辺の土地を神体山視してきたが、他方仏教的な面からは、平安時代前期には既に噴火口を対象として本件土地から西方古坊中の地に仏教寺院が造営され、平安時代祈祷仏教が盛んになるにつれ、阿蘇山上阿蘇山西巖殿寺としてそこには本尊十一面観世音を安置する本堂のほかに、衆徒方二〇坊、行者方一七坊が一四世紀南北朝の頃までに完成したが、戦国時代天文年間に大友家との戦に自ら火を放つて堂塔伽藍焼失し、大本堂のみ焼け残つたことが窺われ、その後は大本堂を中心に本件土地の要所要所に祈祷所を設けて境内地および修験道場として支配してきたが、その後明治初年に至るまで、噴火口を中心とする信仰は、神社側は噴火活動を民族固有の神であると解釈し、仏教寺院側はそれを祈祷仏教、鎮護国家仏教的観点から解釈し、更に仏教的立場をとる本地垂迹説によると、本尊十一面観世音が仮の姿を現わしたのが健磐龍命になると考えられ、また神社の主体性を強調するいわば反本地垂迹説の理解によれば、健盤龍命こそ本件で、観世音は仮の姿であるといわれて、いずれにしても神仏習合の時期にあつて、必ずしも神だけまたは仏だけというように限つていたわけのものでないこと、その間本件土地の支配関係について、神社側および寺院側ともいずれも相手より優位にたとうとして両者間に対立、葛藤があり、歴史的にはその時の権力関係、時勢により神社、寺院の勢力関係に消長をきたしたことが窺われるけれども、それは信仰に対する関係での自己の優位、封建領主に対する関係での自己の優位を保とうと試みての勢力争いであつて、近代所有権としての土地の排他的支配と観念されるものではなく、結局明治元年三月二八日太政官布告(神仏分離令)までは神社または寺院のいずれか一方のみが本件土地を排他的に支配していたものではなく、両者が神仏習合の形で本件土地を支配してきたことが認められる。

ところで、右太政官布告当時、本件土地上には鳥居、および西巖殿寺の大本堂、ならびに祈祷のための四二堂舎が存在し、神社側の神体山としての聖地を形成する一方、寺院側の境内地および修験道場となつていたが、西巖殿寺は明治三年頃一山大衆協議をなし、大乗的見地にたつて時勢に順応すべく、廃寺を前提として四二堂舎伽藍一切を山麓坊中に移築し、その後本件土地には寺院境内地と認め得るような築造物がなく、また神社側の神宮その他の建物も存在せぬまま推移していたところ、明治四年正月五日の太政官布告(社寺領上知令)の施行により、社寺に対し現境内地を除くほか社寺領を上地すべき旨が達せられ、その結果本件土地について神社側、寺院側のいずれにその近代所有権としての支配関係があるかが明確にされないまま、いずれにしても境内外の土地として政府に上地され、国の所有に帰したことが認められる。

証人片岡建長の証言(第一、二回)および証人草部宗尋の証言(第一、二回)中右認定に反する部分は、いずれも寺院、神社に有利に誇張したと思料される部分があつてこれをそのままには信用することができず、また証人片岡建長の証言(第二回)により成立を認める乙第一九号証、同乙第二一号証、同乙第三六号証、同乙第四九号証は阿蘇山山嶽宗教の由来、阿蘇神社と西巖殿寺の関連と確執並びにその時代的背景等に関し歴史的観点からは傾聴に値いする点があるけれども、右認定と牴触する部分は主として作成者である同証人の意見にわたる部分であつて、右認定の妨げとなるものではなく、他に右認定を妨げるに足る証拠はない。

第二、被告主張の本件土地の下戻法による下戻について。

一、被告に合併された旧黒川村が明治三三年六月二五日宮地村外二二カ町村とともに下戻法に基づき原野の下戻申請をなし、明治三八年六月一五日農商務省指令第二七二号でその許可を受け、明治四〇年六月旧黒川村関係分として下戻された原野のうちに、

(1)、熊本県阿蘇郡阿蘇町大字黒川字阿蘇山八〇八番の三

一、原野 三〇町歩

(2) 、同大字字打越堂八〇八番の一

一、原野 四八町歩

(3) 、同大字字鐘の手一〇五八番

一、原野 二六町歩

(4) 、同大字字高塚一六〇六番

一、原野 七五町歩

が含まれていることは当事者間に争がない。

被告は、右下戻にかかる字阿蘇山八〇八番の三の原野の全部、字打越堂八〇八番の一、字鐘の手一〇五八番および字高塚一六〇六番の各原野の一部が本件土地に該当すると主張するので、以下この点について順次検討してみる。

二、下戻法制定の由来。

成立に争いのない甲第二号証の一ないし三、同甲第四一号証の一ないし三によれば、明治初年にいたるまでにおいては近代土地所有権の観念は極めて薄弱であつたが、慶応三年一〇月の大政奉還と明治二年七月の諸侯の版籍奉還とによつてその領有地はすべて政府の所有に移され、更に明治四年正月の社寺領上知令によつていわゆる社寺領の上地を行わせたことから、幕領、藩領、社寺領はすべて政府の所有に帰したが、これらの土地はしばらくの間従来からの民有地と区別され官有地域と仮称されてわずかに公私有の別をたてていたところ、明治五年二月一五日太政官布告第五〇号で「地所永代売買の儀従来禁制の処自今四民共売買致所持候儀差許候事」という土地永代売買の解禁令が発布されて私法上の所有権が確認され、これに伴う「地券渡方規則」が制定され地券税法が漸次全国に普及されるに至つたが、明治六年七月太政官布告第二七二号をもつて地租改正条例が公布され、この条例に基づいて明治七、八年頃からいわゆる地租改正の事業が全国に施行された。

その事業は、土地を丈量し、官民有ならびに無租、有租の区分をなし、その地価を算定評価することにあつたが、それは全国の土地のうち耕地、宅地については明治九、一〇年間に、その他の山林原野については明治一五年二月を最後に終了されたものの、山林原野については旧慣、古例を酌んでその所有について一応の確定をしたに止つた。

また、社寺境内地の取扱いについては、前記明治四年正月の社寺領上知令によつて、旧来の社寺領で現境内地以外はすべてこれを上地せしめる方針であつたが、未だ上地が完全に行われていないところもあつたので、右地租改正事業に際し、「社寺境内外区画取調規則」等しばしばの令達によつて社寺境内地の範囲を局限し、遂に従来の境内地でその祭典法要に必要なもの以外の土地はすべて上地をするよう命ずる一方、これらの土地のうち民有の証拠があるものはこれを民有として社寺の所有とし、自費開墾の証拠があるものはその占有者にこれを無償で下げ渡し、更に永小作、借地して家を建てているもの、その他旧神宮等が境内の不用地に家屋を建てているもの等については時価の半額または相当廉価で払い下げ、その他のものはすべて官有地としたのである。

しかしながら、右官有地への編入はあくまでも民有の証拠がないものをその対象としたのであるが、かかる民有の証拠があつても当時その事実を主張せず官有地となつたものも相当あつたので、明治九年三月二五日「社寺上地及廃寺跡地払下処分方」(内務省達乙第三八号)、同年七月二八日「社寺領上地開墾の保証ある分は確証と看做し無代下渡の件」(内務省達乙第八七号)、明治一一年五月九日「官有地社寺境内無代価下渡地種組替届出方の件」(内務省達乙第四一号)、明治二〇年四月一五日「官有森林原野引戻の件」(農商務省訓令第二二号)等断片的法令をもつて、社寺が上地した土地でも寄付等旧来社寺所有の確証があるものについては、下戻申請によつて当該社寺に下戻すべき旨が定められ、また地租改正の際における官民有区別処分に関してもその誤つて国有に編入せられたものを正すため、明治二三年四月一五日農商務省訓令第二三号をもつて、地租改正の際官有森林原野に編入せられたものにして民有たるべき証左に拠り地所又は立木竹の引戻を謂うものに関する訓令を発し、明治三〇年八月六日農商務省令第一三号で引戻請求の手続を定めたが、引戻に関する省令は申請に対し期限を付けていなかつたため、将来幾何の出願を見るか計り知れないような状況にあつたので、明治三二年四月一四日法律第九九号をもつて国有土地森林原野下戻法が制定され、地租改正又は社寺上地処分に依り官有に編入せられ現に国有に属する土地森林原野若は立木は、その処分の当時これにつき所有又は分収の事実があつた者に限り、この法律により明治三三年六月三〇日までに下戻の申請をなすことができる(同法第一条第一項)旨定められ、ここに同法によつて、明治四年以降に行われた社寺上地処分、および明治九年以降に行われた地租改正の際における官民有区別処分の際、従来民有であつたものを誤つて国有に編入したものについては、その正当な所有者に復帰させることを目的として国有の土地、森林、原野が下戻されることになつたことが認められ、右認定の妨げとなる証拠はない。

三、被告主張の下戻申請について。

成立に争いのない甲第二六号証によれば、旧黒川村村長中嶌律を含めて宮地村村長ほか二三カ町村長は、明治三三年六月二五日付で農商務大臣曽根荒助に対し、「阿蘇郡各村において古来部落協同を以て使用し来りたる原野即ち現今謬りて国有原野に編入せられ居る所の原野は、……………各部落に於て一定の区域を成し、其の区域が一時的のものに非ずして永久不変古来今に於て画然相侵す可らざること他の田圃山林等の共有地と曽て異なる所あること無し、他方は勿論隣区といえどもその関係以外の者が苟も其の境界若しくは刈収を犯すことあるに於てはこれに対し固有の権利を保全するためには寧ろ生命を賭しても相争い遂に農用の刈鎌熊手等の鋭器に訴え血雨を降らすの惨劇を演じ、その筋の裁断を待ち事寝むに至ること往々その例乏しからず、若し関係以外の者にして竹叢を刈収せんと欲する時は必ず其の部落の集会決議を経て承諾を得るか、若しくは売買の約成りて野礼銭等と称ふる其の価を払ふに非ずんば仮令ひ甲部の区域内に幾多の刺余ありとするも決して一指だも染むる事を許さず、且つその区域内に於て適当の場所を相し開墾耕地と為さんと欲する時に於ても亦必ず関係民の集会決議を経るの後公簿の編入を請ひ、相当の課租を受けて始めて個人有の権利を生ずべき慣行にして苟も集会の承諾を得ざらんか如何に適宜の場所なりといえどもみだりに開墾することを許さざるは旧肥後藩制の確認するところにして……………本郡各村有の原野は総て同一性質のものなりしが、牛馬の飼料耕地の肥料屋字の葺料等総ての供給を原野に仰ぎ、原野は実に本郡農民の生存を司るというべき要素なるを以て、当時旧藩府が関係部落に対しその自由進退の権利を確認すると同時に更に免租の特典を与えたために、遂に正租を納めざりしの一事を以て…………その権利無きとして国有に編入せられ、その所有権を失つたが下戻法が施行せられたので下戻の恩典に浴せしめられんを請う」旨事実および理由を述べ、添付書類として、それぞれ村会議決書のほか官有原野一筆限図帳を提出していることが認められる。

右事実によれば、旧黒川村を含めて下戻申請をした二四カ町村は、下戻申請の目的原野が国有に編入せられた当時これに所有の事実があつたとして、しかもその事実は牛馬の飼料、耕地の肥料、屋根の葺料等農民の生存に欠くべからざる事項につき、古来から永久不変の慣行に基づくもので、旧肥後藩制の確認するところのものであり、また下戻申請をした原野はすべて同一性質のものだと主張して、下戻法に準拠して農商務大臣に対し下戻の申請におよんだことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。

四、被告主張の下戻原野と本件土地との関係。

(一)、本件土地は、前認定の如く、明治三年頃までは阿蘇神社により神体山視された聖地を形成し、また阿蘇山西巖殿寺の大本堂および祈祷のための四二堂舎が存在する同寺の境内地ないし修験道場ともなつていたから、その当時までに本件土地に被告主張のような地元民による放牧のための入会権と右聖地、境内地ないし修験道場とが併存するということは普通の法律的な常識をもつてしては容易に考えられないところであるが、被告は、西巖殿寺が打越水神を合祀しており、牛馬が打越水神の神獣として取り扱われてきたことから、牛馬の本件土地への放牧出入は人間の出入以上に自由に認められ許容されてきたと主張するのでこの点について考えてみよう。

証人片岡建長の証言(第二回)により成立を認める乙第一九号証の二の五ないし一一、同証言の一部および鑑定人杉本尚雄の鑑定の結果を総合すると、打越水神社ゆかりの絵図によれば、同神社の祭神が阿蘇噴火口のうえに在し、その山麓の草木地帯に牛馬がたわむれている図がえがかれているから、牛馬は同神社の眷属と認められるが、同水神の祭神は罔象女命、善女龍王(但し、この祭神は仏教的には弁才天である)で、この祭神を祭るのは那羅延坊と打越水神社とであるが、那羅延坊は古坊中における西巖殿寺の衆徒寺院たる成満院の門葉寺で行者坊の一つであり、打越水神社はその中に含まれていた附属的神祠であつて、阿蘇神社の祭神たちよりも二段、三段と低い位に格付けられていたことが認められるので、したがつて、牛馬が打越水神の眷属であるからといつて、西巖殿寺の他の坊および阿蘇神社の本件土地に対する聖地としての信仰の関係で牛馬が本件土地に自由に出入を認められていたと考えることには疑問を挿む余地があり、また、本件土地が放牧地として地元民に開放され、地元民により使用収益されていたと認めるに足る証拠はなく、かえつて、成立に争いのない甲第四四号証、鑑定人松本唯一、同南葉宗利の各鑑定の結果および検証の結果(第一、三回)を総合すると、本件土地の現況はほぼその中央に中岳噴火口を擁し、絶えず噴煙を上げ、または幽遠な湯池と化し、これを巡つて南から左廻りにいわゆる砂千里、水無谷、阿蘇熔岩類の特異な噴出物が屏風岩の如く屹立し、やがて楢尾岳の断崖がら場となつて広がり、その間草木は絶無といつて過言でなく、僅かに火口の西方バスターミナル北方の少区域に限つて若干の土砂がやや落付き多少の草が生えているが、これも無数の放射状溪谷を刻んでおり、全体として地表の裸出地帯を露呈しており、火山活動の直接または間接の影響によつて高等植物群落の形成の発達を妨げてきており、このような自然の荒涼たる状態は、明治前後から現在まで大きな変動がなかつたこと、したがつて、本件土地は草木の植生状況からいつても、またその地形のうえからいつても牛馬の放牧地として使用収益を目論むことの全く困難な土地であることが認められる。

もつとも証人片岡健長の証言(第二回)により成立を認める乙第三六号証、および同証言によれば、明治初年当時までに本件土地に牛馬が出入りしたことも窺われないではないが、右証拠によると、それは山麓における放牧牛馬が西巖殿寺御供所(炊事場)へ塩分を求めて侵入していたに過ぎない程度のもので、地元民が本件土地に入会権を有し使用収益をしていたことを窺わせるには程遠い状態のものであつたと考えられる。

証人片岡建長の証言(第二回)により成立を認める乙第二〇号証、その形成から考えて真正に成立したと認める乙第三二号証中本件土地に草木が生えていたことを窺わせる部分は明治前後から現在に至るまでの本件土地の状態についての前記認定と相容れないものではなく、他に右認定を妨げるに足る証拠はない。

(二)、つぎに西巖殿寺がその堂舎伽藍一切を山麓古坊中に移築した明治三年頃から本件土地上地に至る明治四年までの間に地元農民が本件土地につき被告主張のような入会ないし所有の事実を具えたか否かについて考えてみるに、僅か一年の期間に被告主張のような放牧地としての入会の慣行が発生するということは理論上到底考えられないところであり、またその主張に副うような証拠もなく、公文書として真正に成立したと認められる甲第二四号証、同甲第二五号証、成立に争いのない甲第四〇号証(乙第一三号証と同一)によれば、被告主張の原野のうち字打越堂八〇八番の一の原野、字鐘の手一〇五八番の原野および字高塚一六〇六番の原野についてようやく明治一四年一二月以降地元農民による土地拝借が認められるに過ぎず(その拝借部分も後記のとおり本件土地は含まれていないものと認められる)、また証人草部宗尋の証言(第二回)により成立を認める甲第一八号証の一ないし三、同甲第一九号証の一ないし三、同甲第一九号証の五、成立に争いのない甲第一九号証の四、証人片岡建長(第一回)、同草部宗尋(第一、二回)および証人角本賢尚の各証言によれば、阿蘇神社摂社山上神社は、明治一〇年九月五日政府に対し中岳噴火口附近の土地について神社敷地としての払下申請をなし、明治一二年二月本件土地の南西部に隣接し山麓原野との間にはさまれている土地五〇〇坪の払下がなされ、また西巖殿寺(明治四年廃寺したがその後復興したもの)は明治二一年頃同じく本件土地南西部に隣接する約三、〇〇〇坪の土地の払下を受けたことが認められ、本件土地と山麓原野との中間部に位置する右各土地の払下がなされたということは、本件土地がその山麓原野と共に地元農民による放牧のための入会地の対象として一体性を有していたものでないことが推認される。

したがつて、明治三年頃までは勿論のこと、本件土地が上地された明治四年頃までの間に地元農民が本件土地について使用収益の恒久的な権利、いいかえると下戻法にいわゆる所有ないし分収の事実を有していたとは認められないので、本件土地は前認定の被告らの下戻申請書に縷々述べられている下戻を受くべき原野としての実体を具えていたとは到底考えられないというべきである。

(三)、ところで、前認定の下戻処分は地番をもつてなされたものであるから、たとえ下戻原野としての実体を具えていなくても、その下戻原野の地番境が本件土地内におよんでおれば、本件土地も下戻を受けたことになると考える余地があるのでこの点について検討してみよう。

この点に関し、前認定の被告らの下戻申請書(甲第二六号証)によれば、旧黒川村関係分の添付書類として、

一、官有原野一筆限図帳 一冊(但し宮地、坂梨、黒川分)

一、右同 一通(但し宮地、黒川分)

一、右同 一通(但し宮地、黒川分)

一、右同 一通(但し黒川分)

一、右同 一冊(但し黒川分)

が該申請書に添付されていたことが認められるので、右各原野一筆限図帳によればその下戻原野の範囲は明確にされると思料されるところ、右各一筆限図帳は添付書類であるためかその原本が申請書と共に保存されていないため本件紛争の原因となつているのであるが、成立に争いのない甲第四号証、同甲第五号証の一ないし三、同甲第八号証の一、同甲第九号証の一、同甲第一〇号証、同甲第七三号証の一、二、同乙第一五号証の一、二、証人草部宗尋の証言(第二回)により成立を認める甲第六号証の一ないし三、公文書として真正に成立したと推認する甲第一一号証の一、二、後記のとおり真正に成立したと認める甲第八号証および第九号証の各二、三を総合すると、明治四一年九月二五日阿蘇神社宮司阿蘇惟孝から本件土地のうち中岳噴火口を中心とした六〇間四方の土地を神社境内に編入方の申請がなされた際、熊本県知事、農商務省山林局、熊本大林区署、大津小林区署の関係官庁が、右境内編入申請地と前記下戻原野との関係について調査したところ、前認定の原野下戻に際し黒川村を含む関係二四カ町村長から下戻原野実地受領の件について委任を受けた阿蘇郡書記久保田愿が、当時農商務省から噴火口周辺の荒蕪地は下戻申請をした地域内か否かを尋ねられた際申請地外である旨答えて阿蘇五岳図(甲第九号証の二)と同内容の図面を同省に提出したと、熊本県知事に述べていること、右阿蘇五岳図と同内容のものは農商務省山林局の下戻関係書類にも綴じ込まれていること、熊本大林区署の照会により調査に当つた大津小林区署の回報によれば、右下戻申請書に添付された図面の写である阿蘇五岳図(甲第八号証の三、この図面は大津小林区署が右回報のため写として作成したものと認められる)中薄赤色をもつて示された部分は荒蕪地で官民有いずれに属するか公簿上何らの表示なく、公図である地押調査図(甲第八号証の二)と対比してみると該地は漏落無番の地と認められる旨報告し、更にその調査に際し右久保田阿蘇郡書記も右は荒蕪地につき下戻申請せざりし旨語つたこと、右各阿蘇五岳図によれば、阿蘇中岳、高岳を中心とした荒蕪地帯と根子岳を中心とした荒蕪地帯は薄赤色をもつてその他の原野と色別され、下戻申請地域は薄緑色で明示されていることが認められ、これらの事実に基づいて考えてみると、前認定の原野下戻当時中岳噴火口を中心として坂梨、宮地、黒川、白水、色見の各村にまたがる一帯の土地が地番を付された下戻原野と区別して別箇に荒蕪地として観念されていたことが認められる。

更に、公文書として真正に成立したと認める甲第二四号証、同甲第二五号証、成立に争いのない甲第四〇号証(乙第一三号証と同一)によれば、被告が本件土地の一部に該当すると主張する字打越堂(打越ともいう)八〇八番の一および字鐘の手一、〇五八番の各原野は、いずれも黒川村本田栄次郎外四名が下戻前牛馬飼養のため有料拝借をしたことが明らかであるが、その拝借地の範囲について、字打越堂の原野の境域が「東禿山限り」と記載され、字鐘の手の原野が「南蘇岳禿山」をもつて区切られていることが認められ、したがつてこれらの原野が本件土地のような荒涼たる地帯におよんでくるとは考えられず、むしろ字打越堂および字鐘の手の各原野はそれぞれいわゆる荒蕪地帯の西側および北側に位置するものと考えるのが相当である。

被告は右甲第四〇号証中に字打越堂の原野は三〇町歩、字鐘の手の原野は二〇町歩と記載されていることを捉えて右拝借はこれら原野の一部の拝借であつて地番境は本件土地内におよんでいる旨主張するけれども、右甲第二四号証、甲第二五号証に一部の貸付であることを認めさせるような内容の記載はなく、かえつて成立に争いのない甲第七三号証によれば、右拝借地と同様阿蘇山麓各村が国から拝借を受けた原野の地籍と後に記入された土地台帳の地籍とは全部くい違つており、しかも当初借地願に表示されたものが土地台帳の記載よりも少ないめに表示されていることが認められるので、必ずしも被告主張のように一部の貸付であると断定することもできず、結局被告の右主張も前記判断を覆すに足りない。

そして、阿蘇中岳を中心とする自然の荒涼たる状況は明治前後から現在まで大きな変動がなかつたこと、および本件土地全域が右自然の荒涼たる地表の裸出地帯を露呈していること前認定のとおりであることを併せ考えると、被告主張の字阿蘇山八〇八番の三、字打越堂八〇八番の一、字鐘の手一、〇五八番および字高塚一六〇六番の各原野の地番境が本件土地内におよんでくることはなく、本件土地は右各原野とは別箇の土地で、前記下戻当時いわゆる荒蕪地として下戻の対象とされることなく、国の所有のまま引き残された土地と認めるのが相当である。

字阿蘇山八〇八番の三および字打越堂八〇八番の一の図面である成立に争いのない乙第二号証の一ないし三はいずれも昭和三二年一〇月に作成されたことを考えれば右認定の妨げとなるものではなく、また乙第四七号証、乙第四八号証および乙第五二号証はその図面の表示状態を詳細に検討してみると本件土地附近について必ずしも正確に作成されたものと認め難く、これを全面的に信用できず、証人市原宇之吉、同清原権三の各証言および被告代表者本人尋問の結果(第一回)中右認定に反する部分は、右認定の基礎となつた前掲各証拠と対比して信用することができず、他に右認定を妨げるに足る証拠はない。

五、以上検討したとおり、下戻法制定の由来、被告が本件土地に該当するとして主張する字阿蘇山八〇八番の三、字打越堂八〇八番の一、字鐘の手一、〇五八番および字高塚一、六〇六番の各原野がいずれも下戻法に準拠して下戻の申請がなされていること、本件土地が被告に合併前の旧黒川村について下戻法にいわゆる「所有または分収の事実」のあつた土地としての実体を具えていたとは認められないこと、および本件土地が被告主張の右各原野とは別箇の土地であることに鑑みれば、本件土地を下戻法によつて下戻を受けたという被告の主張は理由がないといわねばならない。

なお、本件土地の下戻を受けたという証人片岡建長(第一回)、同児玉富千代、同片岡権蔵、同佐藤健八、同清原権三の各証言および被告代表者本人尋問の結果(第一回)は、前掲各証拠と対比して信用することができない。

第三、時効取得の主張について。

被告は明治四〇年六月以降本件土地を所有者として占有してきた旨主張するので考えてみよう。

先ず、占有は事実支配のもつとも直接的な場合、すなわち本人が直接に所持をなす場合には自己占有として成立するが、この点に関し、被告は本件土地を放牧地として使用を続けてきた旨主張するのであるが、前認定のような本件土地が下戻原野の対象とならなかつた事情、したがつて、前記下戻前黒川村が本件土地を占有支配していたことが認められない以上、被告が本件土地を占有したというには新な所持の開始が認められなくてはならないところ、証人児玉富千代、同佐藤健八の各証言によれば、黒川村は前記下戻を受けた際、火口附近において村長や原野委員が現地の引渡を受けた旨供述しているが、これらの供述は成立に争いのない甲第七二号証の一ないし三、前掲甲第四号証、甲第五号証の一ないし三、および甲第八号証の三と対比すると、具体的に本件土地を実地について引渡を受けた趣旨の供述であるとするならばその供述内容が具体性に乏しくこれをそのままには信用できず、したがつて、その際黒川村において本件土地について新な所持を開始したと認めることができず、かえつて、前認定のように本件土地は自然の荒涼たる状況により牛馬の放牧地として使用収益を目論むことの極めて困難な土地であり、しかもその土地の状態は明治前後から現在まで大きな変動がなかつたのであるから、かかる土地に被告が放牧のための占有支配としての新な所持を開始するということは容易に考えられないところであり、また本件の全証拠によつても放牧等客観的な所持の開始を窺わせるに足る事実は認められない。もつとも、証人清原権三、同森磨の各証言および被告代表者本人尋問の結果(第一回)によれば、本件土地特にいわゆる砂千里附近への牛馬の出入も認められないではないが、それとても山麓における放牧牛馬が涼を求めて山上の方へ上り、或いは登山者の喰べ残した弁当等に好物の塩分を求めてあさりながら歩く程度のものに過ぎないことが認められ、それは放牧地としての使用収益という観念からは程遠いものといわねばならない。

つぎに、成立に争いのない乙第七号証の一、二、同乙第八号証の一ないし四、同乙第九号証、同乙第二七号証、同乙第三三号証の一および九、同乙第三四号証の一ないし四、同乙第三五号証の一ないし四、同乙第五三号証の一ないし六によれば、旧黒川村は、昭和三年一〇月本件土地のうち俗称硯石附近の土地六〇坪を熊本県に登山小屋建設の敷地として、昭和五年二月藤原逸雄外一名に右硯石附近の土地六〇坪を茶店建築の敷地として、昭和五年六月森朝喜に対し噴火口周辺五カ所に各一坪以下の土地をおみくじ箱設置のために、同年七月池田頼一に対し第一噴火口の西方一〇〇米内外のところ一〇坪を薬品製造ならびに物品販売のため、同年一〇月大阿蘇写真合名会社に対し噴火口附近一帯の土地を写真撮影のため、それぞれ貸付けたこと、および旧黒川村議会は、大正一〇年九月一八日鶴林又喜外一名からなされた字阿蘇山八〇八番の三、字打越堂八〇八番の一の原野につきそれぞれ一畝の貸与方の出願に対し「阿蘇霊山の風致を損する」という理由でこれを却下し、昭和五年三月三日森朝喜からなされた俗称砂千里ケ浜のスキー場建設用地としての貸与方の出願もこれを却下していることが認められるけれども、村議会において借地の出願を却下したということは出願の対象となつた土地についての占有成立の要素としての意思の存在を推認し得る資料にはなり得ても、事実支配としての所持を認め得るものではなく、また右土地の貸付はたかだか一坪ないし六〇坪位の土地におみくじ箱を設置し、或いは登山小屋および茶店を建築したに過ぎず、該敷地を占有していたということは格別、以下述べるようにこれをもつて本件土地のように三五六町歩余におよぶ広漠たる土地を所持しているとは社会通念上認められないものといわねばならず、更に写真撮影のための土地の使用ならびに物品販売のための本件土地への立ち入りという形態をもつてしては、たとえそのための借地契約を伴つていたとしても、それは本件土地を所持していたということはできない。

すなわち、所持は社会的に認められている対物関係であると考えられているところ、その社会通念を生む社会そのものは既に法による秩序づけをうけているものであるから、社会通念からして事実上の支配であると認められるということは、社会規範的に意味があるところの生活現象のなかでこれを捉えていかねばならない。

ところで、本件土地は前認定のようにその中央に中岳噴火口を擁し、降灰、焼石、鳴動等火山活動の絶えざる悪条件下におかれ、全体として地表の裸出地帯を露呈しており、いわゆる非経済的、不生産地であつて、その土地を使用収益するという通常の土地の私所有権の内容を実現するための所持は容易に考えられないところであり、されば前判示のとおり本件の全証拠によつても黒川村がその意味において本件土地を排他的に支配すべく所持を開始したと認め得る事象は存在しないのである。そして、前認定の訴外人のためのおみくじ箱、登山小屋および茶店等設置のため本件土地のうち一坪ないし六〇坪を貸与し、写真撮影または物品販売のため本件土地の使用を許したということは、本件土地が古来から信仰の対象とされ、或いはまた登山、学術研究のため公衆の往来が盛であつたため、その公衆の往来を容認し、その便益に供するための目論みまたは事業の一環をなすものにすぎないと認めるのが相当であり、その外的事実がひいては本件土地を支配していることの象徴であるとまでは一般にはうけとることができず、右のおみくじ箱の設置、登山小屋の建設、茶店の営造、写真撮影および物品販売というような事実は、本件土地利用の関係では何等土地を排他的に支配しているということができるような現象ではなく、したがつて、黒川村がそれら事業主の所持を通じて本件土地を排他的に支配していると客観的に認められるべきものではないのである。

また、被告は、黒川村が昭和四年熊本県に対し本件土地を他の山麓原野とともに県立公園敷地として貸付け、以来同県の管理支配を通じて黒川村が本件土地を所持してきた旨主張するので、この点について考えてみよう。

なるほど成立に争いのない甲第五三号証、同乙第一六号証の一ないし六、同乙第一七号証によれば、黒川村は昭和四年七月三日熊本県に対し、被告が本件土地に該当するとして主張する字阿蘇山八〇八番の三、字打越堂八〇八番の一、字高塚一六〇六番および字鐘の手一、〇五八番の各原野を含む二八筆の山林原野を県立公園敷地として貸与し、一方熊本県は、昭和五年一一月一一日熊本県立大阿蘇公園条例を制定して、黒川村の右各原野を含む阿蘇山をとりまく関係町村所属の一定の原野等を同公園の地域とし、その天然風景を保存助長し、これを公衆の利用に供する目的を以て管理したことが認められるけれども、被告主張の右各原野の地番境が本件土地におよんでいないことは前判示のとおりであるから、本件土地をも貸付けたか否かについては更に検討を要するところ、証人後藤林蔵、同笹木秀俊の各証言によれば、黒川村と熊本県との土地賃借には中岳噴火口を含むいわゆる荒蕪地も黒川村有地として貸借の目的となつている旨証言しているけれども、その証言内容は具体的に乏しく、特に反対尋問に対する応答についてみるに、いずれも行政区画上噴火口附近が黒川村内にあるため本件土地が黒川村有と考えていることにつきるように窺われるので、これをそのままには信用することができず、かえつて、前掲甲第八号証の三、同甲第五三号証、証人相賀鑑範の証言によれば、黒川村がその所有地を県立公園敷地として無償提供することについては、村会においても「農村に関し事頗る重大なる問題につき特に協議の必要ありと思料され」審議が重ねられていることが窺われ、議案として当初提出された契約書の各条項は黒川村の権利を強く確保できるようそれぞれ相当の修正がなされているが、その際特に協議の対象となつたものは、黒川村における既存の権利、すなわち、放牧、採草等慣行上の使用収益の権利についてであつて、それも古坊中より下の原野に登山道路が開設されることについて無償提供するか否かが主たる問題で、字市古坊中より上(本件土地の方を指す)については全く問題としなかつたこと、および黒川村が熊本県に貸付けた土地はその地番からみてすべて前認定の国から下戻を受けた土地であることが認められるので、これらの事実に基づいて考えると、黒川村が熊本県に無償で貸借けた土地の範囲はあくまでも下戻原野に属する範囲と認めるのが相当である。

なお付言すれば、たとえ黒川村内部の意思決定機関において本件土地を貸付ける旨思惟していたとしても、黒川村が県に対する右土地貸付に際し実地においてこれを引渡したことを窺わせる証拠がなく、右貸付時までに黒川村が本件土地を所持していたと認め難いこと前判示のとおりであるから、熊本県が本件土地に対し原始的に占有を始め、かつ黒川村のために本件土地を占有しているということが客観的事実状態のなかから看取されるような場合でなければ、黒川村について本件土地の占有が始つたということを得ないのであるが、熊本県が県立大阿蘇公園を設置したのは前認定のとおり「その天然風景を保存助長し、これを公衆の利用に供する」ことを目的とするものであり、熊本県による本件土地の管理は主として右公園事業の目的に副う行政的な秩序維持のための管理に過ぎず、私所有権取得のための事実支配としての所持を形成するものとは認め難い。

したがつて、被告が占有の徴表として主張する事実関係はいずれも本件土地に対する被告の客観的事実支配、すなわち所持とは認められないので、被告の意思について考えてみるまでもなく、また被告の意思如何にかかわらず、被告の本件土地に対する占有は認められない。

しかしながら、被告は、昭和三三年一月本件土地を含む中岳噴火口附近一帯の土地について阿蘇町立自然公園を設置し、本件土地に立ち入る一般公衆から入園料を徴収するようになつたので(右事実は当事者間に争がない)、被告の本件土地に対する排他的支配が客観的に認められるけれども、同年六月本件訴訟が提起されたので、結局被告の右支配はその継続如何にかかわらず所得時効の要件を満すものとはいえない。

そうすると、被告の本件土地を時効により取得したとの主張も理由がない。

第四、結論

以上認定のとおり、原告は明治四年正月五日の太政官布告(社寺領上知令)により社寺領の上地処分という形態で本件土地の所有権を取得したことが明らかである。

而して、本件土地について原告が昭和三二年六月一八日別紙目録(一)記載のとおり所有権の保存登記をしたこと、被告が右土地を自己の所有地であると主張し、本件土地を含む地域に阿蘇山町立自然公園を設置し、昭和三三年一月中旬本件土地上に別紙目録記載の建物二棟を建築し、同建物を入園料徴収事務所にして同年一月二六日より入園料と称し一般観光客等から大人(満一五才以上)一人につき金三〇円、学生(高校生以上)一人につき金二〇円、小人(満六才以上一五才未満)一人につき金一〇円の金員を強制的に徴収していることは当事者間に争がない。

そして、成立に争いのない乙第五号証の二、同乙第六号証の二および四によれば、右入園料は本件土地を含む阿蘇山町立自然公園に立ち入る者に対し同公園入園料徴収条例、同規則に基づいて徴収されていることが認められるが、その入園料の徴収は、町有財産としての阿蘇山町立自然公園を利用する際の一般使用の対価の徴収、いいかえると使用料の徴収に該当すると解せられ、それはあくまでも対象物件の所有という本権に基づくものであると考えられるところ、被告は、原告所有の本件土地について権限なくして入園料を徴収していることになるので、その入園料徴収という形態で本件土地を有形的に利用し支配しているということができ、更に昭和九年一二月四日内務省告示第五七一号ならびに弁論の全趣旨によれば、国は本件土地を含む熊本、大分両県にまたがる区域を阿蘇国立公園として指定し、これを自然公園として自然の風景を保護するとともに、その利用の増進を図り、もつて国民の保健、休養および教化に資することを目的とし(自然公園法第一条)、広く内外の人々にできるだけ自然の状態において自由に利用されることを最大の利益としていることが看取されるのであるが、被告の右入園料徴収により本件土地を訪れる一般観光客は入園料徴収の限度において本件土地への自由な立ち入りを妨げられており、これはとりもなおさず国の前記自然公園としての完全な利用を妨げているものというべく、被告の入園料徴収行為は所有者の意思に反して原告の本件土地に対する所有権の円満な行使を妨げるものであり、また別紙目録記載の各建物についてもその敷地を占有できる権原についての主張立証がない以上、被告はその建物を所有することによつてその敷地を不法に占拠しているものといわねばならない。

そうすると、原告の被告に対する本訴請求はいずれも理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して被告の負担と定め、なお主文第二項および第三項については原告主張のとおり財産権上の請求に関するもので、かつ仮執行の宣言を付するを相当と思料するから、同法第一九六条によりこの判決の主文第二項および第三項は原告が金一、〇〇〇万円の担保をたてることを条件に仮に執行することができることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 後藤寛治 志水義文 畑地昭祖)

別紙

目録

(一)、熊本県阿蘇郡阿蘇町大字黒川字阿蘇山八〇八番の二〇

一、雑種地 三五六町九反三畝二六歩

(別紙図面0点から順次55点および0点を結ぶ線で囲まれた部分)

(二)、右土地上

一、本造ルーフイグ葺平家建入園料徴収所

床面積 五、七八平方メートル

(その所在場所は別紙図面中×印で示した(イ)のところ)

一、木造スレート葺平家建入園料徴収所

床面積 五、二七平方メートル

外附属通路 三四、七六平方メートル

(その所在場所は別紙図面中×印で示した(ロ)のところ)

図〈省略〉

阿蘇山上荒ぶ地実測図〈省略〉

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